朝のバイタルチェックで発熱

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毎朝バイタルチェックがらあり、私は検温と脈を計る。

今日は37.1℃

前にも書いたが、これが家の体温計なら三38.5度くらいだろうか…つらい。正直言ってつらい。

でも、これは自律神経が壊れているから薬で楽になるものでも、いつになったら楽になるかはわからない。

 

思い出す祖父のこと

私は小学校に入るまで、とにかくよく病院へ行った記憶がある。きわめつけは、入学式に肺炎で入院して出席できなかった。

でも、小学校にはいると自然と病院へいく回数も減っていき、健康的?よく食べよく寝て、メキメキ!太った。

 

熱を出して寝込んでも、誰も知らない。差し入れなんてないし、頭のタオルも誰も替えてくれない。

ふと、いつからだろう…

と、考えると祖父のことが頭に浮かんだ。10年くらい前に亡くなった、母方の祖父。

誰にでも優しくて、誰にでも平等に愛情をそそいだ、怒った顔も見たことがない。

いつも、忙しくて動きまわり、いないと思えば山に登って墨をつくる木を切ってたり

家の木に登り剪定していたり…90になってもそんな生活をしていたけど、だれも祖父の仕事は知らない。

子供である母も知らない。

ただ、周りの家より裕福で、オート三輪を買ったり、テレビを買ったり、電話をひいたり。

近所の人がそれを借りに来るほどだったらしい。

 

祖母に聞いた祖父の仕事

 

祖母は2年前に亡くなったが、それより前に「おじいちゃんは仕事なにしてたの?」

まさかの…

「さぁなぁ…何をしていたんだろうか。」

祖母の記憶によれば、昭和30年頃までは裏山にある竹林の竹が、家を建てる建材として、かなりの高値で飛ぶように売れたらしい。

そのほかにも、広い栗ばたけから栗を収穫して和菓子屋へ卸したり

椎茸栽培をして、料理店へ卸したり。

山で木を切って炭を作っては何処かに売りに行ったり、

神様に備える花を山から切り出し、祖母と一緒に束ねて売ったり…。

すなわち祖父は「きこり」だったんだろう。

 

私は長期に祖父母宅へいくと、父方でも母方でも熱をだして寝込んだ。

でも、母は友達と約束があるから。と兄弟を連れて、体の不自由な父方の祖父に看病を任せでかけたり、

母方で寝込む時は、母の義理の兄がみんなを連れて出かけてしまったので、私はいつも1人。

熱で熱くて、苦しくて汗びっしょりになっていたら、祖父が帰ってきて、新しいパジャマと桃の缶詰、氷嚢を買ってきてくれた。

みんなが楽しんでいるのに、1人だけ寂しい思いはさせたくない。と、かわいいパジャマを買ってくれたのを覚えている。

 

今、こうして熱を出して寝込んでも、祖父のような優しさはそばにない。

それどころか、我が子が寝込んだ時は祖父以上の愛情を注ぐ立場だ。

入院して1か月以上経ったけど、我が子が寝込んだ。という情報はないので安心している。

でも、やっぱり熱を出しだ時は、誰かにそばにいて欲しい。

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